リトル・ダンサーが思いの外良かった!

ケス(作品はカラーです)
リトル・ダンサーのジャケットに使われているショット

Kes/1969/ケン・ローチ/イギリス/110min
Billy Elliot/2000/スティーブン・ダドリー/イギリス/111min


タイトルの通り午前十時の映画祭で観た「リトル・ダンサー」が予想以上に良かったのと(体調不良押してでも劇場で観られて良かった)、英国映画「ケス」の題材が似ていたので比較してみたくなったので何か書きます。ネタバレありだよ。どっちも良い映画だよ。



始めに

リトル・ダンサーを観たきっかけは、ケーブルテレビで放送されていたのと、近場にあったレンタルビデオ店でジャケットに惹かれたからだ。幸いにも午前十時の映画祭で上映していたため大きなスクリーンで観ることができたのだが、以前観た同じくイギリスの炭鉱町を舞台にした「ケス」と似ている箇所を多く見つけた。しかし二つの物語は決定的に違う。その違いについて考察したいと思う。


リトル・ダンサー


あらすじ

舞台は1984年、不況の炭坑町ダーラム。労働者階級の少年、ビリーはボクシングジムで稽古に励むが、元来喧嘩が苦手で身が入らない。ストでたまたまいつもの練習場所が使えなかったバレエ教室の生徒達がジムの一角を使うことになった。居残り練習を課せられたビリーはバレエと出会う。

考察

ビリーの母は亡くなっており、父と兄、そして少しボケた祖母と暮らしている。二人の稼ぎ手はどちらも炭坑で働いているが、炭坑不況でストの真っ最中だ。血の気の多い二人とは対照的に、音楽が好きでバレエに傾倒するビリー。祖母は娘の時分ダンサーになる夢があり、家には母の残したピアノもある。彼はそちらに似たのだろう。階級社会と血族という描写が本作には多く出てくる。当時は労働者階級の、それも男がバレエをやるなどとは批判されるような社会だった。オカマと言われてしまうし、なによりそんなことをやらせる金はない。だが炭坑は不況で、11歳のビリーが大人になる頃、果たしてまだそれで食べていけるかなどわからない。だから父はボクシングでのし上がって欲しかった。未来には不安しかないのだが、踊ることを覚えたビリーの見る世界は明るく輝いている。その時の演出が見事で、彼の心情表現としてダンスのシーンが挿入される。その姿を俯瞰で撮ってみたり、アイレベルを胸のあたりに設定して飛び跳ねさせてみたり、足下だけを写してみたり、とにかく人間の身体は美しいと思わされる。
ビリーの才能を見抜くバレエ教室のウィルキンソン女史は中流階級だ。思い通りに行かなかった時、ビリーは彼女に「中流階級で良い所に住んでいる癖に」と悪態をついた。それくらい厳しい階級差別が当時はまだ存在していた。1982年結成のThe Smithsのモリッシーは階級のせいで大学に行けなかった。彼が大学に通っていれば、もしかしたらロックの歴史は変わっていたのかもしれない。一方で1988年結成のBlurは全員が大学を卒業している(それはそういう階級の人間ばかりが集まった結果でもあるのだが)。この作品にはそんな時代背景がある。
ビリーには近所に住むマイケルという友達がいる。彼もボクシング教室には行きたがらず、バレエを始めたビリーにチュチュは着るのかとしきりに聞く。彼は姉の服をこっそりと着て化粧をする(そして彼曰く、彼の父親もこっそり女装している)。言うならばオカマなのだ。階級の話ばかりしてきたが、この作品ではセクシャリティに対する問題も提起されている。バレエは女がやるもので、男はボクシングかフットボールをやれ。古い伝統的な考えはこうだ。だがクリスマスの夜、ビリーはマイケルに誘われジムに忍び込む。ビリーはマイケルにチュチュを着せてやり、思い切りジムを縦横無尽に踊り狂う。そこに父が入ってくるのだが、彼のダンスを見てその熱意と才能を認めるのだった。そのシーンがとても美しく力強い。そう考えると好きなことに一途に取り組む姿の美しさがこの作品の肝なのかもしれない。そしてそのシャイクスピアの悲恋の物語を思わせる身分違いも甚だしい恋のような考えに父も兄も、祖母だって向かい合う。「手に職をつけろ」とは祖母の言葉だが、もう代々炭鉱で食って行ける時代は終わりを迎えつつあったのだ。
ビリーは無事に面接へこじつける。オーディションの会場はロンドンで、父と二人首都へ向かう。バスで移動するのだが車中の会話は「首都になど行ったことがない」というもので、お上りさんなど考えられないことだったのだろう。会場で「ウィリアム・エリオットさんですね?」と受付に聞かれても面接官に聞かれても、ビリーは「ビリーが正しい」と答える。そこで階級の差が言葉や身のこなしにまで反映されていることが強く印象づけられる。オーディションが上手くいかなかったビリーは声をかけてきた去年もオーディションに来た金髪の上流階級の少年に殴りかかる。

作品の舞台は1984年だが、SF小説が好きな人ならG・オーウェルの「1984年」を思い浮かべるかもしれない。1949年に書かれたディストピア小説で、核戦争後、すべてが監視され管理された社会の話だ。喜ばしいことに、実際の1984年はそんな社会ではなかったが、未だ階級制度が残る社会ではあった。話はその15年後、2000年のビリーの勇士で幕を閉じるのであるが、それはまさにディストピアの年を乗り越え、階級も性別もあまり関係ない時代が到来したという暗示であると捉えている。


ケス


あらすじ

労働者階級の少年ビリーの家に父はいない。母と父親の違う兄と暮らしているが、家にも学校にも居場所がない。そんな彼がハヤブサに興味を持ち、育てることにする。懐かないと言われていたがケスと名付けたハヤブサとビリーの間には信頼関係が築かれていく。

感想

「ケス」初めて観たとき、ひたすら打ちのめされた。ビリーが兄に買うよう指示されていた馬券を買わなかったことで、ケスは殺されてしまったから。ゴミ箱の中からハヤブサを見つけた少年の姿は弱々しく、救いのないものだった。しかもそこで話は終わってしまうのである。この悲しく救いのない最後はあまりにも現実的で、監督の持つ階級社会への怒りを感じる。
ビリーの父は蒸発し、家にほとんど居ない母と父親の違う兄と暮らしている。友達もおらず学校にも家にも居場所が無い。そんな彼がハヤブサの巣を見つけ鳥に興味を持つ。なつかないと言われても熱心に世話をし必至に育てたケスとの間には信頼関係が生まれる。ビリーにとっての親友で家族はハヤブサなのだ。学校の成績も振るわなかったが作文の宿題が出た際、彼はケスについて発表をする。それまで無口だった少年が鳥のこととなると饒舌に、また他者を意識し話すのだ。ビリーがケスと一緒に居る時、ケスが彼の言うことを聞いた時、その顔はまぶしく輝く。愛情を与え真摯に向き合えば種族を超えた信頼関係が結ばれる。しかし人間はそうではなかった。階級が違えば通える学校も変わり、住む区画も環境も全く異なってくる。陳腐な歌詞のようだが、大空を自由に飛ぶ鳥は同一の種同士では縄張り争いこそすれ人間のようなヒエラルキーは作っていない。本作に於いてハヤブサは人間社会の理不尽の象徴なのかもしれない。
ケン・ローチの映画は本作しか観ていないのだが、彼は常に労働者階級や移民などの社会的弱者とも言える人々の物語を撮っているようだ。フランスにダルデンヌ兄弟という監督がいるが、彼らの作品はドラマチックな演出が全くなく、ましてやBGMなども流れない。終わり方も尻切れとんぼで落ちがないのだが、そのせいでより現実感とでもいうのか、ドキュメンタリーを観ている気分になる。しかしその先に待ち受けるのは未来だ。「ケス」もかなりドキュメンタリー的である。だが体育でフットボールをする場面では、各チームの得点が画面に字幕で現れたりする。それが少しコメディタッチで、観ているこちらもフィクションであるとどうにか認識することが出来る。それでも十分に辛い物語なのだが。そしてあの幕切れの先にあるのは何だろうか。あるのは今後も続く階級社会と炭坑でしか働けないという未来なのだ。

比較

この様に両者は
  • 炭鉱の町が舞台で
  • 労働者階級の少年が
  • 打ち込めるものを見つけ
  • それに惜しみない愛情を与えていく 物語だ。
また「ケス」でケン・ローチは高く評価され、現在もイギリスを代表する映画監督である。間違いなく「リトル・ダンサー」は「ケス」を参考にしているだろう。二人のビリーが置かれた状況はとても似ているし、物語のアウトラインもほとんど同じだ。そしてどちらの映画にも図書館で本を借りられず無断で持ってきてしまうという場面がある。二人ともどれほど自分の愛する対象に真摯に向き合っているのか。それがよく現れる場面であり、また「ケス」を観て「リトル・ダンサー」を観れば、名作に対するオマージュを感じ取ることができる。
二つの物語が辿る道は真逆の方向だが、「リトル・ダンサー」の感想で述べたように、もう時代は違うのだ。「ケス」は1969年、片や「リトル・ダンサー」はその15年後の1984年が舞台だ。そしてその年はオーウェルの描いたディストピアの予言された年だった。そのディストピアを幸いにも免れた社会は変りつつあった。「キンキー・ブーツ」という映画もあったが、それは老舗の靴屋がオカマ向けに大きく強いドラアグクーンの履く様なブーツを作る話だった。偏見も少しずつなくなってきた。そういう社会が来たからこそ、「ケス」と似た題材で「リトル・ダンサー」は作られたのではないか。現在はより「1984年」の劇中と割と似た環境かもしれないが、決してディストピアというわけではない。あらゆるものの境目が薄れた世界だと言った方がよかろう。ビリーの様な少年もケスの様に空を飛べる日は近いのだ。世界は変っている。

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