マッドマックスを観てきました

What's a lovely day!

Mad Max: Fury Road/2015/ジョージ・ミラー/オーストラリア/120min


バードマンとチャッピー早く書こうと思いつつ出来てない自分に失望した(©ヒューマンガス様)。

そんなわけで「マッドマックス」観ました。既に二回観てます。劇場にあと3回は通いたいし、4DMX観に東京遠征したいし、それは無理でもせめて博多までIMAX上映観に行きたいです。
観た直後は何も考えられず、一週間くらい経ってやっと映像の暴力から立ち直れるような作品でした。R-15なのは肝油はお子様は1粒だけみたいな感じだと思います。成分が強すぎるみたいな。中学生男子は絶対ハマるのに観られなくて可哀想。
あと何でギブソン出ないって思ってたけど予算不足で10年も押してたら(興味をなくしたとのことでしたが)年齢的にもマックス役は辛くなりますね。でもやっぱりギブソンのマックスが見たい…

以下、感想と考察を書きました。ネタバレはあんまりないはず(というか内容なんてほとんど無い)。





「マッドマックス」とは

「マッドマックス」の第一作目が公開されたのは1979年、今から36年前に遡る。対暴走族専門の警察官マックスと暴走族との死闘を描いた作品は低予算ながらも迫力のあるカーアクションが受け、その後2本の続編が作られカルト的な人気を持つシリーズとなった。本作は1981年に公開され大ヒットを記録したその続編のリメイクという性格を持ちつつも、シリーズ第4段に位置づけられる作品だ。
これらの作品が人々に受けた背景には末法思想とでも言おうか、世紀末特有の憂鬱があると思う。19世紀末に退廃的な文学作品や絵画作品が量産され「世紀末(fin-de-ciecle)文学」とか「デカダン(退廃)派」と呼ばれ人気を集めた。世界を巻き込んだ二度の大戦(しかも一つでは核兵器が使われた)を経験した20世紀のデカダンがこの「荒廃し汚染された地球に現れた覇者」だったというのが筆者の意見だ(余談だが19世紀と言えば産業革命の世紀であり、公害や子供の労働等の現代にも通じる問題が生じた時代でもある。このような急速な発展をや変化を迎えると神々の怒りを買うと思うのが人間なのかも知れない)。特にこのような世界観を確立させたシリーズ2作目が有名だが、それは荒廃した地と暴走族の圧倒的なビジュアルセンスのためだろう。肩パッドの付いた革ジャン、スタッズまみれの革製マスク、モヒカン、チェーンetc…敵のファッションは今や世紀末のステレオタイプだ。2には元ネタなのではないかと憶測された映画があるのだが、それについては後述したい。
「マッドマックス」は多くのフォロワーを生んだ。作品だと日本の「北斗の拳」は見るからにオマージュを捧げているし、80年作品「エクスターミネーター」もどことなく似ている。またデビッド・フィンチャーやジェームズ・キャメロン、ギレルモ・デル・トロは影響を受けたと公言している。


「怒りのデスロード」

本作はまぎれもなく傑作だ。それは「マッドマックス」シリーズの生みの親にして全ての作品を撮ってきたジョージ・ミラー本人がメガホンを取った所にある。彼は「マッドマックス」の全てを知っているのだ。それ故に本作では作品のコンセプトから2で語られなかった部分に至るまで全てが完璧に補われた言っても過言ではない。それくらい完成度が高く、それでいて作品の雰囲気を壊していない。ミラーは「マッドマックス」シリーズを撮った後、「ベイブ」2作を撮り、またアニメ映画「ハッピーフィート」ではオスカーを受賞した。そんな監督のファミリー映画を撮りすぎて溜まりに溜まった鬱憤が爆発する形で「マッドマックス」の最高傑作が出来てしまった経緯を知ると、人間のもつ一番原初的な欲求というのは破壊衝動なのかもしれないと思わされる。


物語のあらすじは荒廃した世界、イモータン・ジョー(1作目のボス、トーカッターを演じたヒュー・キース・バーン)を盲目的に崇拝する集団と反旗を翻し彼の元から逃げだした子産み女達と一緒に東に行くことになったマックスが死闘を繰り広げるというものだ。ただメインはアクションであり、ほとんどの人はSNSで『鑑賞後はIQ5になる』などと褒められていたそのアホなほどにド派手な部分に気を取られがちだが、決してそんなことはない。極限まで削ぎ落とされた話だからこそ、観る者が奥底に持つ何かに訴えかけてくる。ミラー監督が対談で語っていたが、女性を守ろうとする女戦士との存在故に生じるフェミニズムと健康な男子を求める独裁者、V8エンジンを模した合掌のような古代への回帰にも似たもの。それら全てが必然的に産み出された物語なのである。映像にも意匠が凝らしてあり、アップとロングがとても上手く織り交ぜられている。まだ遠いが近づきつつある追っ手の姿。タンクに近づく追っ手の姿を引いて見せた後は接近戦に持ち込むカメラワークの妙。それが生み出すド迫力カーチェイスが動であり生きることを表すならば、荒れ果てカラスが飛び交う夜の風景は静であり死を意味する。死の大地と化した故郷を捨て希望のない独裁国家を生きる土地にするという決断。自分が人間であるという感覚を徐々に取り戻していくマックス。「変化」というのが本作の一つのテーマであると取れる。

アホな部分に触れておく。多くの人の心を鷲掴みにしたのはコーマドーフ・ウォリアー(ギター弾いてた人)だろう。なんでギーターが火を吹くんだよと大爆笑したが、文明がなくなった故の原始への回帰であり、ウォーボーイズ(こいつらもコープスペイントした麿赤兒にしか見えないけどよくよく考えるとスキンヘッドは衛生的で実は彼らのファッションは理にかなっている)の身体的な装飾や刺青はオーストラリア先住民を彷彿する。ジョー様(観たらこう呼びたくなる)等権力者の乗る車は幾重にも車体を重ねてあり、監督曰く『権力を視覚化するために重ねた』とのことだった。小学生か。重ねた上にさらにいろいろ(ex.ベンツのエンブレム)装飾も施してあるのもバカポイントが高い。余談だがワーゲンのビートルは大人気らしく、数台の車体に搭載されていた。載せたい気持ちはわからんでもない。クラシックカーが魔改造されているのも可愛いのに凶暴でなんとも絶妙なバランスだ。また本作のカーアクションに「デスレース2000年」を起想した。フュリオサの行く手を阻むジョー様の軍勢の姿と彼らの車の馬鹿すぎるデザインが原因だろう。「デスレース」が小学3年生なら「怒りのデスロード」は小学5年生の自由帳に描かれた『僕の考えた最高にカッコイイ車』といったところだ。しかもそれを20世紀の名車でやるとカッコいいのが妙な所で、アホな部分も実は作り込まれている。作り込まれているのだが、登場人物には変なのしかいないし、誰であろうと簡単に何の躊躇もなく殺す様の見事さと言ったらない。だがこんな世界だったらむしろそれが正義なのだ。トムハのスタントとセロンのスタントが殴り合っていたら愛情が芽生えた話もいろいろと狂っている。



「少年と犬」

2には元ネタになった映画があると言ったが、それはハーラン・エリスン原作の小説を映画化した「少年と犬」(75)というカルト作品だ。しかし長年元ネタだと囁かれていたが、「〜デスロード」のパンフレットできっぱりと否定されてしまっていた(※)。それでも(核)戦争後の世紀末のプロトタイプを形成した作品であることには間違いないので触れておく。
大四次世界大戦後(作品の冒頭で展開される戦争のコラージュ映像は「リベリオン」等の多くのディストピア映画でオマージュされている)、男しか生まれなくなった地上で女を捜す少年とその相棒の犬の物語で、二人の姿や缶詰を通貨のように使う様子は2のマックスと犬の姿と重なる。ミラー監督が観ていなかったらしいのが信じられないくらいだ。水やガソリンがマックスの世界で皆が求めるものならば、女が彼らの世界では求められている。少年はテレパシーで通じた犬と行動している。犬の鼻を使って女を捜しているのだ。彼らは少女を見つけ他の男たちと奪い合いの末、少年は彼女が来た世界に犬を捨てて行ってしまう。彼女の住む地下世界は地上とは逆に男が生まれない世界だったのだ。その後のオチが非常に衝撃的なので、是非気になった人には観てもらいたい。この作品でも女がキーアイテムとなっており、だが「〜デスロード」と違う点は原作者がミソジニーをこじらせた女性の描き方をしている点だろう。ここに出てくる女は曲者で、主人公ヴィックを手玉に取り果ては地下でクーデターを起こそうと企んでいる。一方の「〜デスロード」は先述の通り女戦士が女を守ることによりフェミニズムを生んでいる。他にも憶測が飛んだように対立するグループが出てきたり缶詰が通貨となっていたりという類似点や比較できる事柄がたくさんある。とにかくこちらも隠れた世紀末ディストピアの名作だ。

※「〜2」を撮り終えた後本作の存在を知ったということなので、もしかすると「〜デスロード」には今度こそ「少年と犬」が反映されているのかもしれない。


「マッドマックス2」

アクションからカリスマ性溢れる指導者の存在、そぎ落とされたシンプルな物語故のメッセージ性に至まで無駄も文句のつけようも無い。確かに「〜デスロード」は傑作なのだが、それでも旧作には印象的で魅力溢れるキャラクターがたくさんいる。ヒューマンガス様の出落ちっぷりに度肝を抜かれつつも、やはりまだジョー様よりも頭が良いので頭脳戦でいけば強いのではないかと思っている自分がいる。でもジョー様の軍勢に5秒でやられる。赤モヒカンのバイクの後ろに乗ってるやつが男だと気づいた時の衝撃や(何故かゲイっぽい服装で変な関係なのかと邪推していたらモヒカンの養子だとかいう設定らしい)、全然しゃべんないあーとかうーしか言わなかった知能的に(以下略)ブーメラン少年のその後がまさかの語り部だった時のお前どうしちゃったんだよ感。キャラクターの魅力でいけば個人的には僅差で旧作に軍配が上がる。古臭くとも文句無しの名作で傑作で伝説だというのが僕の意見だ。そう言いつつ、マッドマックスは一作目が好きなんだけど。トーカッターがジョー様になるとは、一作ずつ作品は別ものであると言いつつもどこかで繋がっているところが心憎い演出だ。


終わりに

本作という21世紀の伝説を観られてほんとうに幸せだ。そんな映像体験だった。是非アクション作品が好きな方は劇場で観た方が良い。そして銀のスプレーを買って口に吹きかけてヴァルハラへ行こう。もうバカでいい。みんな馬鹿な方が幸せだ。


余談

監督が言うに三部作の構成らしいので、三作目のボスとかで顔が全くわかんない状態でメル・ギブソン出ちゃえばいいのに。「…こいつは旧世界で覇者になた男、マックス…!」みたいな感じの演出で。

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