夏休み終わっちゃったよ子供劇場「ロボコップ」

このキャッチコピー大好き

RoboCop/1987/ポール・バーホーベン/アメリカ/102min


8月は体調壊して全く映画が観られなかったよ。そして9月も体調崩してもう10日しかないじゃねーか。
むしゃくしゃするから前から言ってたように「ロボコップ」について長々と語ろうと思うよ。実際に喋り始めたら一時間くらい余裕で話せる自信があるよ。子供の頃から大好きなヒーローだよ。HotToys RoboCopも買ったよ。でも3で空飛んだ時は子供心に「ないわー」と思ったよ。主演俳優も変わってたの当時全然気づいてなかったよ。「裸のランチ」選んで良かったね、ピーター・ウェラー!


始めに


僕がロボコップを初めて観たのは5歳の時だと記憶している。確か金曜ロードショーのような番組で観たのだろう。当時の僕は特撮が好きな少年だった。全身を覆うスーツと少しぎこちない身のこなしに痺れ、またその暴力描写に妙な面白さを見いだし、そして子供ながらに感じた物語の根底にあるものに、畏怖にも似た感情を持った。よく覚えているシーンが多々あるのだが、いずれも暴力的なシーンではなくて「マーフィー」という「個人」が「個」を無くす場面なのだ。何が5歳の少年の中に残ったのか。そして感じたそれは的外れでもなかった。

「ロボコップ」

「ロボコップ」は1987年公開の映画で、「トータル・リコール(90)」や「スターシップ・トゥルーパーズ(97)」で知られるオランダ人監督、ポール・バーホーベンの作品だ。物語はデトロイトにあるオムニ社がうなぎ上りの犯罪率を抑制するためにロボット警官ED-209を作るも失敗。そこで殉職寸前の警察官:アレックス・マーフィーをアンドロイド警官:ロボコップへと改造するというものである。素晴らしく冷淡な外見、簡潔な物語、暴力描写、(舞台は2010年だが)画面から漂ってくる世紀末の匂い。それがとても格好良かった。
本作がヒットしたのはそのわかりやすいストーリーと所々に現れる毒、そして何よりロボコップのデザインの秀逸さのためだろう。実は日本の特撮ヒーロー「宇宙刑事ギャバン」がモデルになっているのも子供心を掴む要因になったと思われる。しかしながら、本作は、決して子供向けの娯楽作という枠には収まりきれない作品でもある。

暴力についてと物語の考察

アレックス・マーフィーはギャングに蜂の巣にされて死ぬ。ショットガンで打たれたマーフィーの手首が千切れる部分はテレビでは放送されなかったと記憶しているが、それでも容赦なく銃弾を浴びせられる姿と、ギャングの浮かべる狂気の笑みは、十分に暴力的だった。レイプ魔が盾にした被害女性のスカート越しに股間を打たれるシーン。見るだけでも痛い。だが寸分の狂いも無く打ち込まれる弾丸は、なんと格好いいのだろう。ロボット警官だから、あの仮面が彼の視覚に供給するグリッドが、あの太ももに収納されている拳銃だから出来る射撃。そういう(当たり前だが)人間らしからぬ動きの魅力が子供心に突き刺さった。
暴力は魅力的だ。子供に悪影響だとか、そんなことは(完全にとは言い切れないが)ないと思っている。直接的な暴力描写は他者の痛みを喚起し、死を考えさせ、時に恐怖に戦く。想像力を持ち共感することは人間らしい感情だ。だが人間も所詮動物であり、暴力は絶対的な価値を持っている。それが暴力的なコンテンツが長く受け入れられている背景にあるのではなかろうか。
冒頭ではYAMAHAの人工心臓の、ニュースの合間には核爆弾ゲームのコマーシャルが挿入される。これら、レーティングを下げるために取り入れたブラックジョークなのだが、直接的な暴力描写をどこか滑稽にしている。そのような描写に対するバーホーベンのセンスは卓越している。「スターシップ・トゥルーパーズ」にもそんな黒さがあるが、それはまたの機会に話そう。

アレックス・マーフィーは殉職する。いや、厳密には生かされるのだが、最早アレックス・マーフィーは彼という「個人」ではない。本国アメリカでのキャッチコピー"Part Man, Part Machine, All Cop."は的確な表現だ。マーフィーという細胞死を迎えていない肉体(人体)があり、それに補われた機械があり、それが彼を一人の、人々が求める「完璧な警察官」たらしめるのである。彼は「個」をなくし、その代わり「公」の人になる。彼は警察官という公共の平和を守る機械なのだ。また彼の顔を覆うマスクは、彼から顔を奪っている。顔は人間にとって一番個人を識別しやすい器官だろう。それが見えないことにより、彼の人格は消え、匿名となり、新たに与えられた「ロボコップ」という名前は彼が何者なのかを明らかにする。また移動手段のパトカーは彼の所属が警察であることを表す。肉体的には蘇っても、彼の精神は死んだままなのである。ある意味ゾンビなのだ。

直接的な暴力シーンも多かったが、先に書いた通り、僕にはそれ以上に怖かったシーンがある。未だにそれは、僕にとって、今まで観た映画の中で最も悍ましい場面だ。当時言い表せないような絶望を感じたのだが、その正体が何だかわかったのは、20年近く経ってからだった。それは科学者が視察に来たオムニ社の社員にロボコップを説明する場面だ。電気椅子にも似た装置に座らされたマーフィーは動かない。科学者は彼のエネルギー源について聞かれてベビーフードのようなペーストを食べるのだと答える。汚らしい音を立てて機械から出てくる黄土色のペースト状の食べ物。それは辱めに見えた。中世の拷問にも似た不気味さがあった。乳歯が生え揃い咀嚼の喜びを覚えたばかりの僕には、自分の親ほどの人間が赤ん坊の食べ物を与えられようとする姿は衝撃的で、あまりにも残酷だった。徐々に文字が書けるようになり、知識を吸収し、「もうお兄さんだね」ということばを掛けられ、着々と自我を育む過程にあった子供だからこその感情だったのかもしれない。プライドも、人間性をも剥奪された「大人」の姿が、そこにはあった。暴力とそれに対する恐怖は動物的な初期衝動を持ち合わせる感情であろうが、そのような場面にも暴力性を感じ心を痛めるのは、とても人間的なことだ。子供は大人が思っている以上に繊細なのだ。

少し話が逸れた。
「個」を失くした彼だったが、警察官としての職務の合間に徐々に記憶を取り戻していく。妻と息子の夢。死ぬ間際の景色。「マーフィー」と自分の名を呼ぶバディだったアンの声。そしてある日、とうとう電気椅子から立ち上がり、彼は「個」を取り戻す。警察官という「公(パブリック)1」の存在が「個(プライベート)」になり、そして私刑に燃えるという展開。それも警察と企業との関係が崩れるのだ。そこには絶望的なカタルシスがある。私(わたくし)の思うままに動く生き物の姿は本能に従順な動物的であるが、だからこそ人間的でもある。この終盤の展開は、本作の大きな魅力にもなっている。

実はこのカタストロフィーをもっと掘り下げると、意外なものが見えてくる。マーフィーが鉄工所で完全に自我を取り戻し、その顔を覆う仮面を脱ぎ、彼を肉体的にも精神的にも「殺した」ギャングと格闘する場面がそれだ。マーフィーが水の溜まった鉄くず置き場にやってくる。このシーンが意味するものは、キリストの奇跡なのだ2。神の子が海の上を歩いたように、マーフィーも水面を歩くのだ。廃墟と化しつつある無法地帯に現れたメサイア(本当はオムニ社の内紛のために作られた存在だが)がロボコップであったが、マーフィーという「個」を取り戻した彼は人格を持ち復讐に燃える。この皮肉といったらないだろう。創造者に歯向かい、彼の欲する所を遂行する。これは精神的な再生だ。彼は一人の「人間」として地上に蘇ったのだ。それは耶蘇の再来なのである。ある組織の救世主として作られたロボット警官は創造者を裏切り、自分自身のために戦ったのだった。

終わりに

少年だった僕が大人になり、十数年ぶりに改めて作品を観た時に抱いた感情が上記だ。何度見ても色褪せることのない大好きな作品だ。きっと今後も観る度に込められたメッセージを新たに見つけていくことだろう。



1. ただし警察という組織はオムニ社に吸収され民営化されているため彼らは公務員ではない。ここでは警察は公共の福祉を守る存在であると定義するために「公」と表現している。
2. 要出展の情報ではあるが、アメリカのサイトGeek Twinsにて記述がある。

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