たまにはドナテロのことも思い出してあげてください(ミケランジェロ・プロジェクト観たよ)

あの人がイングロのブラピ並みに美味しいところを持って行ったと思う
…いややっぱブラピよりは滅茶苦茶仕事してた
The Monuments Men/2015/ジョージ・クルーニー/アメリカ/118min


ドナテロの聖ジョージは困っているようにしか見えない。ドラゴンにメンチ切れてない。

先月とうとう一年ぐらい続いてた月一劇場鑑賞が途切れた。悔しい。最近映画見られてないしこれ観たの2月じゃん…

お金も時間もないけどカラヴァッジョ展行きたいです。多分行けないな。地方在住の辛さ。あ、佐賀県に住んでいますが地震は大丈夫でした。熊本の現代美術館大丈夫かな。

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ミケランジェロ・プロジェクト観たよ。2012年くらいにどっかからフライヤーもらってやっと本編が観られた。長かった。堅苦しいというかちょっと近寄りがたさもあるテーマですが娯楽的な要素が多く、だからといって真面目な部分はしっかりまじめに作ってある良い映画です。ちょっとクルーニーが小慣れてるだろ(ドヤ)って感じで撮っててイラっときたけど。ビル・マーレイのすっとぼけっぷりが最高。

どうして観たかというと、僕自身が一応美術系の学校に行っていたのと、博物館学芸員資格取ろうとして博物館概論落として取れなかったけど未だに未練がましくキュレーターに憧れているからです。一言で言えば美術が好きだからです。そういう作る側と守る側の立場から観た本作について語ろうと思います。真面目で長いよ。あと着地に失敗しました。



美術品とはどうのような役割を社会で担っているのか、そして美術館や博物館の意義とは何か。本作を観て筆者が考えたのはこの二点である。

第二次大戦下、第三帝国はヨーロッパ中の美術品を強奪しまた街を破壊していた。連合国(アメリカ)の美術専門家により結成された「モニュメンツ・メン」はそれらの宝の奪還を目指す。これが本作の簡潔なあらすじだ。

美術の歴史

美術品とは何か。それは日常生活に別段必要なものではない。飾るということも本来なら不要なことだ。だが何故人間はものを生活圏内に不要なものを飾るのか。

美術の歴史は旧石器時代まで遡ることが出来るだろう。アルタミラやラスコーの洞穴壁画も古のアートと言える。何故彼らは絵を残したのか。いくつもの説があるが、一般的に言われるのは神々への祈りとしての絵、もしくは日記的な絵である。この絵のように獲物が捕れますように、こんな獲物を捕ることができた。それが最初の絵だった。粘土をこね石を削り人形を作ることもあった。デフォルメされた女性の豊満な肉体という偶像で五穀豊穣を祈り、マンモスの牙に装飾を施した槍で獲物を追った。人々は魔除けのための装飾品を作り身につけた。しかしここに職人は存在しても芸術家は存在しない。あるのは動機と作った人間だ。「飾る」という行為は神への知らせや見えないものから身を守るための行為だった1
その後人類は言葉と文字を得た。文字として共有された情報はその文字が廃れたことにより忘れられることも多々あった。だが絵はそれ以上の情報量を有している。ヒエログリフは読めなくともエジプトの壁画から我々は古代エジプト人の習慣を知るように、たいていのことは内容を理解できる。先史時代と同じように人々は絵を描いた。だが古代文明の場合はその絵の目的がややはっきりしている。多くはまた神への捧げ物であり装飾のための文様であるのだが、人生の記録であることも多い。古代の人々も死ねば墓を作った。その人の死後の裁きのためその人生が嘘偽りなく清廉である旨を文字と絵で表現したのが古代エジプトの一連の壁画や棺桶の模様である。また豪華な副葬品と共に眠るのは王族やその側近だった。その副葬品の多くに神々があしらわれており、そこからわかるのは宗教的な意味が大変大きかったということだ。
紀元後になると偶像崇拝が禁じられる宗教が現れるが、偶像という実像を得ることで神は人々と近くなる。絵画や彫刻は宗教と密接に絡み合うこととなった。神のための神殿には彼らの偶像が飾られていたが、布教のために作られた教会に字も読めぬ信者にわかるような教えを示した絵が飾られた。上手い絵を描くものがそれを職業にし、いつしかその名前が後世に残るようになった。絵は信仰心を表すものだった。しかしその信仰は技工的なものではなく、いかにその神聖さを表現するかに重点が置かれていた。記録的な意味でももちろん絵は描かれていた。権力者の肖像画が残っているが、先述の理由のため稚拙に見える。ルネサンスが起こるとテンプレート的な神の表現が打ち破られ、自分に似せた肖像画を権力者が描かせるようになった。同時に風俗画が起こる。それまでにもないわけではないが、この時代からその量は爆発的に増え、現代人はそこから当時の暮らしを推測する。その後貧富の差が埋まり始めると一般市民も肖像画を欲しがった。レンブラント「夜警」のような集団肖像画が描かれたりもした。横顔の切り絵が手軽な肖像画として流行した。更に時代が下り工房制作だった絵画が画家一人の手によるものとなった。それはチューブ式の絵の具が開発され油絵が少し身近なものになった部分も大きいだろう。この発明により絵を描く者が増える。また写真が開発されると多くの人が肖像を手に入れられるようになる。祭壇の習慣の延長でそれを飾るのだというのが筆者の考察だ0

略奪の美術史

以上が筆者の考える美術の流れである。中盤で書いたように、芸術品というのは権力者のためのものという性格が強いと思われる。美術品の価値はその持ち主の地位をも高めるのだ。如何に自分のコレクションが素晴らしいかを示したくなるのが人間なのだ。それに美術品は多くの場合持ち主を転々としている。現在スミソニアン博物館に収蔵されている「ホープダイヤモンド」は以前マリー・アントワネットに所有されており、それ以前にもルイ14世等有名諸侯の元を行き来していた。
そのため美術(館)の歴史は略奪の歴史であると言える面もある。ナポレオンはイギリスに遠征した際に古代ローマ彫刻「ラオコーン」を自国へ持ち帰っており、他にも古代ギリシア時代の作品「サモトラケのニケ」「ミロのビーナス」の様な傑作彫刻も現在ルーブルに収蔵されている。大英博物館にはロゼッタストーンがあるが、これはエジプトが英国に植民地化された際に発掘され持ち帰られたものだ。スペインは古くから続く王室があり、プラドの収蔵品の殆どがそのプライベートコレクションである点が他国と少し異なる。第三帝国の場合はさらに画家志望であったヒトラーの古典趣味が大きな特色となる。「ミケランジェロ・プロジェクト」で描かれたのはこのヒトラーによる侵略国からの略奪と破壊だ。彼はバウハウスなどの現代美術に良い感情をいだいておらず、中心人物を亡命させたばかりかそれらの作品群を破壊している。それと同様にピカソのような現代作家の作品も燃やされた。これらの蛮行はもちろん批難されるべきであるが、もし枢軸国が勝利していたならば、今頃彼の作っていたであろう総統美術館は賞賛されていただろう。ナポレオンが失脚しつつも現在のフランス共和国を建国したという疑うことのない事実と、大英帝国という勝者の歴史がこれらの略奪を肯定していると筆者は思っている。

美術館および博物館という場所

人間という生き物は所有欲を持ち、そして所有するものを見せびらかしたいという欲求も同時に持ち合わせている。
美術館の始まりは貴族のコレクションである。"Cabinet of Curiosities"という語で検索すれば、当時諸侯たちがどのようなコレクションを有し、どのように保管していたかを窺い知ることが出来る。だがそれらはこの時はまだ個人のコレクションにすぎなかった。
1777年、イタリアはフィレンツェに開館した帝・王立物理学・自然史博物館は、身分により時間帯や料金などの多少の区別はあるものの、一般庶民から貴族までに広く開かれたものであった。これはトスカーナ大公であったペーター・レオポルト・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲンによる改革で実現した。もともとメディチ家のコレクションだったもので、教育に関しても熱心だった彼らが学術的な資料として一括管理する目的で作られたものであったのだが、それが多くの人に開かれたのだ。著名な研究者がその館長を勤め、更に膨大になったコレクションは専門ごとに分裂し、いつしか動物学コレクションと解剖蝋人形だけが残ったロマーナ通りにある歴史的建造物は、ラ・スペコーラ(La Specola/天文台の意)博物館2と呼ばれるようになった。この開かれた博物館が現在の博物館の原型になっている。知識人へのコレクションの提供は学術的な発展に欠くことが出来ない要素だった。その役割の解釈は現在更に拡大され、人々(大衆)がただ各個々人が「楽しむ」ことも美術館博物館の意義になっている。そういう意味で現代の美術館博物館は、大衆的な脅威関心と学術的な物品とが集まった、なんともアンビバレントで興味深い空間になっていると個人的に思う。もちろん筆者も大衆の一人だ。

美術品の価値

美術品はそれぞれに価値を持つ。相対的且つ普遍的な価値を持つものが美術品として美術館に所蔵されているが、そうでないものに価値はないのだろうか。また価値あるものは命をかけるに値するのか。
劇中でも言われたように、物はその所有者の歴史を内に宿している3。所有者がそのものに価値を見い出せばそれは価値のある美術品たりえるが、作中、美術館へ収める価値が無いとないと判断された作品は打ち捨てられたかのように没収品として倉庫で埃をかぶっていた。だが実際はそうではない。例え美術史に名を残すような画家の描いた絵画ではなくとも、それを求めた人物にとってそれは紛れも無い財産だ。また、価値あるとされるものがその歴史を示すことが出来なければ価値はあるのだろうか4。相対的な価値はなににでもあるが、絶対的な価値はどうかと言われると、それは難しい話だ。それでもそこに絶対的でなくとも、それに近い価値を見出すからこそ、人間は作品を守る。悲しい話だが、人間も一人ひとりは絶対的な価値を持たないと筆者には思われる。だがその人は個々人には素晴らしいかけがえのない人間なのだ。三島由紀夫の小説「金閣寺」に、物体として残らないからこそ価値を増すという記述があった。金閣という絶対的な美しさを抹消することにより、その美を絶対的にする。物言う人は消滅するが語り継がれる物語を残し、物言わぬ物体は消滅することなく姿をただ留める。無言のうちに物語を示す彼らはそれぞれに価値を持ち合わせる。その姿は残すに値するのだった5




0. 早くエルンスト・H・ゴンブリッチ著「美術の物語」を読まなくてはいけないと思いつつフィリップ・K・ディックばかり読んでいる。
1. また装飾はセックスアピールも担っている。孔雀の羽根が派手なのも猿の尻が赤いのも、異性へのアピールである。今回の論点は生活圏内の装飾なのでこちらにその旨を記載しておく。
2. この記述は「解剖百科」(タッシェン・ジャパン刊)を参考にした。博物館名の表記はスペコラ、スペーコラ等の表記もあるが「解剖図鑑」に倣いスペコーラ表記にした。
3. フィリップ・K・ディック「高い城の男」に於いて、美術商のロバート・チルダンや太平洋岸連邦第一通商代表団の田上信輔のモノローグとして同様の記述があった。奇しくも本作の舞台は枢軸国側が勝利し日独に分割統治されるアメリカなのだった。
4. 鑑定書がある/ないのようなことのつもりで書いている。3.で先述したように「高い城の男」でチルダンにより語られている。
5. 自分でもうまく着地出来なかった。両足複雑骨折や。

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