ゴッホ最期の手紙観てきたよ

ゴッホっぽい

丸っと一年更新してませんでした。

去年の11月に話題作観てきました。個人的にはなんであんなに評価高いの??って感じだったので愚痴ります。一緒に行った友達も閉口してたから僕だけじゃないはず。素晴らしいと感じた人は「この傑作をわからないバカがいる」、「そういうお前はこんな素晴らしいもの作れるわけ?」、「うっわ異端な俺カッケーかよ…」とか好きなように心の中で罵っておいてください。あ、でもアレクサンド・ルペトロフっていうロシアのガラスに油彩描いて美麗なアニメーション作ってる作家さんの名前だけは覚えておいてください。





「ゴッホ 最期の手紙」。それは全編ゴッホ調の油絵で作成されたアニメーション作品だ。その変わった制作技法が話題となり、多くのメディアで取り上げられた、2017年最も期待の高まる作品の一つだった。僕も期待していた一人だ。冒頭の「星月夜」が動いているシーンに鳥肌が立ったのだが、その内不満しか出てこなくなった。いつの間にか鳥肌は「なんて寒い三文芝居を見せられているのだ」という意味のものに変わっていた。
ゴッホ「星月夜」

本作冒頭
街並みのパースなどをある程度整えてある

油彩で造られたアニメーションというものはすでに存在しており、旧ソ連の作家アレクサンドル・ペトロフの生み出した映像美は有名だろう。彼は1999年にヘミングウェイ「老人と海」をアニメ化し、アカデミーの短編アニメーション賞を受賞している。ペトロフの造り出す画面には透明感があり温かみがあり、そして絵画的な美しさをも備え合わせる。筆ではなく指先で薄く延ばされた油絵具は一見アカデミックな油絵のようだがイラストレーション的でもあり、不透明な絵の具が薄く延ばされ重厚感と透明感の二つを持ち合わせる。その奇妙さが心地よく、とても美しい。独り小さなスタジオに籠り黙々と絵画のような、アニメのような、イラストのような、あいまいだがすべての垣根を超えるような作品を造り上げている。ちなみに彼の「春の目覚め」はツルゲーネフ作品を下敷きにしており、ロシア文学の持つ独特な世界観も堪能できる。
このイメージがあったせいで、全編「実写映像を下敷きにゴッホ風の絵で表現したアニメ」という風にしか本作を見ることができず、魅力を感じることが出来なかった。僕が油彩アニメーションの一つの到達点であり、一人の職人が造り上げた傑作を知っていたことが、多少なりとも本作へネガティブな印象を持った一因だろう。

ペトロフのメイキング

ゴッホの技法は産業革命後チューブ式の絵の具が作られ、所謂素人でも手軽に油絵が描けるようになったことに起因すると思われる。ここで長くなるが、絵の具がどのように作られるか話したい。チューブ式の絵の具が普及するまで、従来の画家が彼のように絵の具を画布に盛らなかったのは、画家の工房で弟子が作成した絵の具を使っていたせいもある。また油彩はテンペラという技法との延長線に位置していたるためか、薄く溶いた絵の具を何層にも重ね絵を描くことが長いこと一般的だった。テンペラとは、顔料(ピグメント)と呼ばれる色のついた粉末を水で練り、そこに卵黄と酢を混ぜたバインダー(エマルジョン/エマルション)と呼ばれる定着液を混ぜた絵の具で絵を描く技法のことだ。水彩絵の具などは水をもう一度含ませればまた絵の具を薄めたり延ばしたりすることができるが、テンペラはそうはいかない。アクリル絵の具のように乾きやすく、そして一度乾くと耐水性になる。そのため画家はハッチングと呼ばれる細い線を幾重にも重ねる技法で影や光を重ね、最終的に絵を完成させた。一般的に絵の具はテンペラと同様に、顔料を水で練り、そこにエマルジョン(エマルションとも言う)やバインダーと呼ばれる定着成分を混ぜることで作られる。ラスコーやアルタミラの洞穴壁画が数万年を経た今もきちんと保存されえ得たのは、アラビアゴムなどのエマルジョンできちんと岩に定着されていたからだ。そうでなければ例え洞窟の中であまり環境が変わらず光も風雨も来ない場所であっても、ここまで長く保存されない。ピグメントを水で練ったものは長持ちしない。テンペラをやってみたくて少し多めにピグメントを練ったものの、夏場に一日放置しただけでカビだらけになったことがある。大量に作ったところで長期的な保存は出来ず、それに顔料は貴重品で贅沢品だった。今でも手に入りにくい紫などの顔料は、数十グラムが5000円以上で取引されている。絵の具は産業革命が来るまでとても貴重だったし、選ばれたものや工房ででもなければ触れる機会がそうそうあるものでもなかったのだ。

本作で医者の娘の「(アカデミックな意味で)絵を知らない癖に、彼は2時間かそこらで絵を1枚完成させ、それに父は嫉妬し、その作品を模写していた」という証言があった。彼が生きた時代も先述の通り、絵の具はまだまだ高級品だった。にもかかわらずこれでもかと絵の具を画面に盛りつけた結果、彼の作品は妙な迫力を備えた。そしていわゆる「アカデミックな絵画」とは宗教的な素養が求められ、バックグラウンドにあるものを知る必要があった。丁度ゴッホが生きた時代は画壇の転換期だった。マネがオダリスクをその辺にいた娼婦と黒人召使で描き「これは宗教画ではありません、描きたいものを描きました」と言い、それが受け入れられ、現代的な絵画観が根付き始めた時代だった。ゴッホの絵画も彼が描きたいものが描かれている。浮世絵に囲まれた老人を描き、花瓶に活けたヒマワリを描き、質素な自室を描き、靴を描いた。これらの絵画の絵の具の盛もだが、色合いも独特だった。それは彼が色盲であったからだ。気が狂ったようなインパスト、熱狂的な色彩、デッサンよりも描くことに固執し少しいびつなモチーフ(だがこれを魅力に変えるすごみがある)。彼は人々の考えを超えた画家だった。真似するなどはなから不可能だったのだ。本作も技術ある画家たちが100人集まろうと狂気を備えた天才を超えることなどできず、アニメーションの絵柄はゴッホ風でしかなかった。先日AIに筆致をアルゴリズム解析させた、レンブラントの新発見の絵画と見まがうほど真に迫った作品(と呼んでも良いのだろうか)が出来たというニュースを聞いた。こうして作ったほうがよっぽど良いとさえ思った。ゴッホの作品もアカデミックな素養がなく、そのせいでデッサンがおかしいものが多々あるが、そのハンデをものともしない魅力と説得力がある。だがその魅力を写しきれるわけもなく、ただ下絵となる写真をゴッホ的な塗り絵にしているだけで、それの対しての違和感が凄かった(分業性だから無理なのもわかるんだけど)。回想部分のモノクロームのパートに至っては意図的に写実絵画に落とし込んであるのだろうが、それはただの中途半端な写実でしかなく、妙な動きのリアルさが大変気持ち悪い。何故ゴッホ風ではなくとも絵画(油彩独自の表現)にしなかったのか。ガラス版に描いているので深みのある表現は無理にしても、どうにかならんかったのか。いや、カラー部分はちゃんとゴッホ風になってはいたのだからどうにかなったやろ。

また物語もすべての人間の話が噛み合うことなくなんのカタルシスもないものだった。すべての登場人物は実際に生前のゴッホが描いた人物ではあったが、物語に説得力をもたらさない。すべての人間の言動が絡み合うこともなければ、カタルシスとともに画家の最期の時を描くわけでもない。物語の中でいったい誰が本当のことを言い、だれが嘘を言っているのか。これが全く分からなかった。クリストファー・ノーラン「メメント」やマインドファックなる言葉で語られたドイツ映画「ピエロがお前をあざ笑う」のように、どこかできちんと話がつながらないのだ。ひたすら各々の証言が羅列され、ただゴッホが死んだことだけが事実なのだ。誰かが殺したのか。本当に自殺したのか、宿屋の娘が言うように彼は精神科医と不仲になったのか。何も解決しない。そのせいで僕はこの映画自体が、(当たり前だが)嘘っぱちなのだとしか思えなかった。何故こんなに評価が高いのだろう。別に技法も目新しくなく、撮り方(この場合絵のアングルや構図の取り方等)も良くあるもので、物語も陳腐なうえに意味が分からない。百数十人の選ばれた画家が数年の歳月をかけて作り上げた。それは素晴らしい。だがどうしてもペトロフが独りで作り上げた幻想的な作品、ゴッホの独特なデッサン、そして信用できない語り手が出てくる名作映画を知っていたため、感動も感激もできなかった。

あとすっげー気になってたんだけど郵便局員の息子の服、襟の縁が黒いんじゃがなくて影なんじゃね?



こき下ろしたが、もちろん分業制を否定するわけでも、参加された画家の皆さんを貶したいわけでもない。このような実験的な作品に携わることが出来るというのは光栄だし、素晴らしい技術があるために今回この作品のクレジットに名を連ねているわけだ。百人以上の画家が数年をかけ、そこに監督や俳優、カメラマン、アニメーターなどのプロフェッショナル集団がかかわっている。素晴らしい部分もたくさんあったが、僕は上記のような理由で違和感を覚え、感動が出来なかっただけだ。本作を素晴らしいと思うのも人それぞれだ。ゴッホの絵が好きな人もいれば嫌いな人間もいる。このような感想を持つ人間もいるが、だからと言ってあなたの価値観はあなたの価値観で尊重したいし素敵だ。表現物とはそういうものだろう。

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