ピエロにお前が嘲笑われた

テーマ曲になってるRoyal BloodのOut of the Black好き

Who Am I - Kein System ist sicher/2014/バラン・ボー・オダー/ドイツ/107min



去年だけど「ピエロがお前を嘲笑う」観たよ。絶対騙されるって言われたから騙されるもんかって思って観たら騙された。悔しい。映像はネット空間の演出が素晴らしかったです。電車に乗り込むみたいなやつと楽しいお面集団。あとドイツの町並みはお洒落だね。スタイリッシュなんだけどノスタルジーがあったりする。ふと現実に引き戻される瞬間とか演出も上手。ぼかそうとしたけど書いてみたらおもいっきりネタバレしたから注意してね。とりあえず自分が思ったことについて掘り下げてみようと思うよ。ハリウッドリメイク決まってるらしくて気になる。


※記事日不具合を修正したら記事の一部がなくなったので、一部書き換えました。ちゃんとメモ帳に書いて上げろってことですね。反省。



『人間は見たいものだけを取捨選択して見ている』。それが本作のコンセプトだ。だがそれ以上に筆者の琴線に触れた部分がある。こうやって筆者も自分が見たかった部分だけを取捨選択しているので、映画のコンセプトや主張はこの感想からも容易に伺えるだろう。というよりも、普遍的な人間心理がこれなのだが。
舞台はインターネットという仮想空間。その空間は無限で匿名で不透明だ。そこにwhoami(Who am I/私は誰だ)というハンドルネームで書き込みを始めた主人公ベンヤミンはいつしかハッキングの才能を開花させ、ハッカー集団CLAY(Clowns Laugh At You/ピエロがお前を嘲笑う)のメンバーとなる。大手のハッカー集団Fr13ndsに認められようと不用意にBKAのサーバーへ侵入したことから彼らは殺人の容疑をかけられ、また裏切り者に気づいたFr13ndに仲間を殺されたベンヤミンが出頭する。物語はそのベンヤミンの独白と回想で進む。
ところどころに挟まる調査官との会話シーンで我に帰り気づく。実は我々はCLAYの他のメンバーを誰一人として見ていないのだ。それがどういうことかと言うと、我々は信用ならぬかもしれない若者一人の話で全てを図り知ろうとしているということだ。数個の真実以外に事件の真相を知る術は、ベンヤミンただ一人の供述にかかっているのだ。とても機密性の高い空間に我々はいる。だが同時にベンヤミンの精神という、真実の詰まった空間がもう一つ存在している。
ラストシーンでベンヤミンは新たな名前を手に入れ仲間と消えていくが、本当に彼らは存在するのか。あの化かし合いの結果がもたらすのは本当にあの結末なのだろうか。筆者は人間の固定観念というか、ネタをバラされたあとにも疑心暗鬼にさせる、後を引きずる謎が本作の「マインドファック」な部分だと解釈する。透明な存在がネットの不透明化で匿名性を失い、そして大手のハッカー集団から逃げるためにまた透明になった。彼は本当に透明になったのか。人間の存在の脆さと人間の騙されやすさ。人間という内に一物を抱えた自我達がネットという匿名の無限の海に身を浸した時、むしろその「本当の」姿は現実味を帯びるのかもしれない。


"whoami"というハンドルネームを聞いて真っ先に思い浮かべたのはルネ・デカルトの「我思う、故に我あり」という言葉だ。ラテン語で"Cogito  ergo sum"と綴られ、"I think, therefore I am"と英訳されている(ちなみに初出である「方法序説」はフランス語で書かれており"Je panse, donc je suis"で、これは主要な部分を抜き出した物で実際はもっと長い文章だ。フランス語で哲学書をしたためることは以下略)。前後の文脈と共に訳すと「己の存在を疑問視するということは自分自身がそのことについて思考しているということであり、それ故に思考する私という存在は実在する」ということだ。ベンヤミンのハンドルネームの語順を入れ替え"Who I am"にしてみよう。"I am〜"というセンテンスを我々日本人は「私は〜です」と訳すだろうが、このように"Who I am"と"who"を関係代名詞と見なすと「私という人間」と訳が出来る。映画が中盤から終盤に差し掛かり、我々はベンヤミンの話に信用がならないことに気付き始める。本当に仲間はいたのか。これはある意味でデカルト的な疑問と重なる。
また先述のデカルトとは反対の内容になるが、ジャック・ラカンの説いた鏡像段階論という考えがある。同じく己の存在についての考え方なのだがラカンの場合、子供は自分の身体を統一体と捉えておらず、鏡=他者を媒介して己の存在を確認するという内容だ1主人公ベンヤミンは自分のことを「透明な存在」と言っていた。不遇な幼少期から第三者にその存在をほとんど認められず、透明人間として存在を気にされることなく生きてきた。その彼が「私は誰だ」という名前を持ち、インターネットという匿名で不透明な空間でアイデンティティを形成していく。鏡像段階を過ぎると子供は人間としての自我を芽生えさせる。そこで生じるのが現実界・象徴界・想像界だとラカンは言う。現実のことを表すために象徴的言語活動を介しての個々人の繋がり、イマージュ(想像及び表象)として頭の中に存在するトラウマを無意識的に補おうとする。簡単に言えばその想像を言語という象徴に変換し現実に存在せしめるということである。ラカンの指摘を鑑みると、CLAYのメンバーの存在は、不遇な子供時代を過ごし友達も碌にいなかったベンヤミンの妄想の言語化であるとも取れるのだ。
そうすると一体誰が正しいのか。

二転三転する物語の実情はこれら二つの考え方を行ったり来たりしているようで、そうするとあの結末は文脈通りに受け止めることが出来るのだろうか?ベンヤミンは果たして透明に戻り、仲間達は実在したのか?ピエロは我々を未だ嘲笑っている。

1. その鏡像段階を過ぎると自我が芽生え、自己の存在を己だけで確信出来るようになるため、デカルトの「方法序説」中の一節と同意になるが、ラカン自身が「エクリ」で「デカルトとは異なる考えである」と述べていた。

コメント