ナイトクローラーとタクシードライバー

ギレンホール(弟)と言えば「ドニーダーコ」がすごく好きです
Nightcrawler/2014/ダン・ギルロイ/アメリカ/117min


去年の11月だけど「ナイトクローラー」は現代版「タクシードライバー」だと聞いて観てきました。トラビスが可哀想すぎて「タクシードライバー」そんなに好きじゃないんだけど。この記事書こうとしてWiki読んだらモヒカンが特殊メイクって書いてあってちょっと悲しくなった。自前だとばかり。
内容としてはトラビスが偏執狂的妄想こじらせ男なのに対してルー(大柴ではない)は本当にいそうなサイコパスでめっちゃ怖い。そんでジェイク・ギレンホールの顔つきが初っ端からヤバい。すごくいい俳優になったね。ねーちゃんも良い女優さんだと思う。

感想はがっつりネタバレです。


『「ナイトクローラー」は現代の「タクシードライバー」だ』という前評判を聞いていた。実際そうなのだが、40年の月日が社会を大きく変えたことを実感せずにはいられない。
トラビスが不眠症を患うベトナム帰還兵であるのに対し、本作の主人公ルーは夜間マンホールや鉄網を盗んでは売りさばく無職の若者だ。二人とも社会的弱者であり、「正義」に目覚め自分勝手なそれを振り回す。そういった点で両者と彼らの物語は似ているのであるのが、「ナイトクローラー」には更に踏み込んだ点がある。帰還兵の悲哀が薄れつつあった当時、アメリカンニューシネマというジャンルを樹立したのが「タクシードライバー」であるならば、「ナイトクローラー」は現在問題になりつつある過激化する報道問題にいち早く切り込んだのである。

ルーが盗んだ鉄くずを売った帰り、ハイウェイで事故を目撃する。レスキュー隊の救出作業をひたすら撮影するカメラマンがTV局に高値で映像を売る姿を見た彼は、早速見よう見まねでビジネスを始める。その「仕事」で成功するに従い、彼は夜をさまようものとしての本領を発揮していく。

「タクシードライバー」のトラビスが妙な正義感を振りかざす物語のラストはドン・キホーテとも言うことが出来るだろうが、こちらのルーは「ミザリー」のアニーに似ている。アニーは作者を誘拐し『かわいそうな』ヒロインを蘇らせるべく作者を誘拐監禁し、物語を書き変えさせようとする。まるでそれと同じように、ルーも事実をねじ曲げ始める。最初は良い画を撮るために被害者を移動させるぐらいだったが、終いには映画監督やシェイクスピアででもあるかのように一つの物語を作ってしまう。その小細工に我々は憤りまた戦慄するのだが、現実世界の報道においても同じことが行われているのだ。
「金を持った白人をヒスパニックや黒人が襲う図が数字を取れる」。そう言われたルーは傍受していた警察無線で小金持ちの住む地区の事件を知り現場へ急行する。着いた瞬間聞こえる会話と銃声。逃げ出す犯人。車のナンバーも確認したが彼らを泳がせ、さらに大きな事件に仕上げようとするルー。彼はすかさず室内に潜入し遺体の画を撮り、生存者を見殺しにするのだった。
報道はいつしかエンターテインメントになった。いや、もとからそうだったのだ。1912年、日本の南極隊が現地で「日本南極探検隊」という20分のドキュメンタリー映画を撮った。映画というよりも記録や報道の意味合いが強かったが、当時巡回映画で歩くペンギンの映像を見た人々は当時何を思ったろう。今観ても南極に降り立ったという興奮を覚える。また1936年ベルリンオリンピックの時、国威高揚のために第三帝国は「オリンピア」を製作した。監督であったレニ・リーフェンシュタールはその編集に1年半を費やし、現在でも「オリンピア」は傑作映画としてその名を映画史に刻んでいる。当時の技術の全ても集結させたその映像は未だ美しくダイナミックだ。結果を知っていても尚、その映像には興奮せずにはおれない。これらは報道という面を持ちつつも、人の手が加えられた「映画」だった。というよりも、映画という形状でしか映像を見るすべがなかった。カメラは大きくフィルムは現像を要し、ロケーションには大勢のクルーや作業員が必要であった。その後カメラが小型化し視聴者側にもテレビが普及し、技術の進歩は衛生中継を可能にした。我々はリアルタイムで情報を手に入れられるようになったのである。日本初の衛生中継はケネディの暗殺になったのは有名な話だ。「大統領の頭が吹っ飛ぶ瞬間」が放送されたのだ。センセーショナルで残酷な真実がそのまま放送された。現在インターネットが広まったことにより、素人でもカメラとアップロード環境さえ持っていれば誰でも情報を拡散できるようになった。自殺風景をUSTREAMで配信した者も居た。映像という報道形態は大々的な物から個人的な物まで多岐にわたる表現になったのだ。デジタルデータとなった映像はコンピューターやスマートフォンさえあればプロの様な編集だって出来る。そうやって簡単になった映像制作のプロセスは報道を過激なものにしていく。ある程度の時間が経たなければ我々に情報は入ってこなかった。しかし現在は事件が起きた直後には現場に赴きリポーターが中継する。またインターネットにはTwitterやFacebookに地震や洪水の被害をリアルタイムにアップロードする人間がたくさん居る。時にそれは地震速報以上に有用だ。またカメラを持った人間はその瞬間を記録し共有したがる。その共有された情報にTV局が群がる。素人の情報ですら高く売れる時代。それが生み出した怪物がルーだった。
情報が高く売れる時代、その情報に視聴者は何を求めるのか。情報は至る所にあり飽和している。では何が見たいのか。痛ましい事件や猟奇的な事件が起きたら我々はその背景に複雑な物語を期待するだろう。何故事故は起こったのか、何故犯人は凶行に及んだのか、何故被害者は無惨に殺されなければならなかったのか。まるで人の不幸を知り自分の幸せを確認するかのように、これを部外者である視聴者は知りたがる。それをTV局は知っている。だから必要以上にその渦中の人物を軽蔑し英雄視する報道が量産されるのだ。「タクシードライバー」のトラビスもそうやって英雄視されいつの間にか忘れられた。過度な装飾を施されたニュースは一人歩きをすることすらあるし、同じように過剰包装された別の報道が流れることで風化することも多々ある。この一瞬が売れればよい。その一瞬を売るために、業界の人々は報道を「造り上げる」のだ。そのニュースを見た我々は本質を知ったつもりになり、次のニュースに目を奪われ、忘れ去っていく。

本作の特筆すべき点はそのような業界の裏側を淡々と描いたことだ。ルーが思い描いたシナリオが目の前で繰り広げられ、かれはその「現実」を撮ったに過ぎない。妙に現実的な幕切れはこの総報道社会に生き全てに過激な物語を求め次々に忘れていく我々に警鐘を鳴らすかのようだった。





補足
そうやって過激に報道されたから風化しない事件もある。またそのおかげで解決された事件もあるのだが、何かの圧力があれば報道が取りやめられ風化する事件だって山ほどあるのも事実なのだ。報道は権威主義だ。ルーも同業者と凌ぎを削っていたように各々のテリトリーがあり、また作中では出てこなかったが権力者に揉み潰されることもある。報道のあり方を問いかけた作品と言った方がいいのかもしれない。また「タクシードライバー」はアメリカの未来などの明るさを感じる終わり方であったが、「ナイトクローラー」は最後まで不気味さを残して終わったことも興味深い。若者はまた報道に命を落とすのだろうか。問題提起の仕方が絶妙だった。

コメント