アメリカン・スナイパーを観ました

守るべきは何か

American Sniper/2014/クリント・イーストウッド/アメリカ/132min


ちょっと気になっていたしファーストデーだったこともあって観てきました。
以下、例の如く長ったらしい感想(かなりネタバレ)。




なんと言えば良いのかよくわからない。ただ確かなのはまだ学生だった時分に同監督「チェンジリング」を観たのだが、その時も同じような虚無感とやるせなさを覚えたということ。またそんな感情はきっと僕が主人公クリスの様に守るものがあるという立場に置かれていないことや、日本という平和な仏教の国に生まれたという部分も大きいのかもしれない。
本作は僕の好みではなかった。というのも始終重苦しい雰囲気に包まれつつ、主張がよく解らなかったからだ。愛国なのか、反戦なのか、イラク戦争の否定なのか。それは「チェンジリング」の時にも感じたことで、だが実話であるからこその曖昧さでもあったと言える。イーストウッド作品は他は「グラン・トリノ」と「ミリオンダラー・ベイビー」しか観ていない。その二作はフィクションであり「物語」だ。事実は小説より奇なりと言うが現実は現実であり、歪めるべきではない。それが本作と「チェンジリング」の妙なあっけなさを生んでいたと思う。脚色をしなかったことや伝説の狙撃手をヒーローに祭り上げることなく描いたところを僕は評価する。どう取ろうもない。しかしこういう人間がいて、こういう最期を迎えたのだ。そして遠くではまだそういう人間が生まれているという事実がある。

映画の内容について触れておく。
イラクで手榴弾を持った少年を狙う狙撃手クリス。引き金を引いた瞬間、彼のアメリカでの日々が甦る。
幼いクリスは父親とハンティングに行きシカを仕留める。初めて仕留めた大物の感触と少年を撃つ感触はイコールなのか。銃を地面に置くなと注意する父。日曜には家族と共に協会へ行く。父は彼に牧羊犬として家族を守れと言う。狼にはなるな。制裁を加えろ。それが教えだった。
クリスはネイビーシールズとなる。結婚し父親にもなる。しかし彼は「家族」と離れ戦地へと赴かねばならなかった。彼が守るべき羊は彼自身の家族だけではなく、祖国や戦友もそのうちの一つだ。彼が居る場所を考えると、彼に見える守るべきものは「戦友」であった。それは自然なことだろう。狙う標的との距離よりも遠い家族。遠く離れ会うことの出来ない者と物理的な距離。それが男を孤独にする。
スコープ越しの敵との対峙を強調するアップを多用した構図には緊張感があった。それが本作を少なからず娯楽的にしているのだが、未だ続く戦闘を考えるとそのように観ることが出来なかった。だからといってアメリカを賛美する内容でもない。ベトナムと同じことを繰り返している。そう思ってしまった。

戦争は国という羊を互いに守り合う行為だとも言えよう。クリスはアメリカとその国民を守り、イラクの人々も自分の命と国をする。クリスは狙撃手として海兵隊員を援護すべく敵の一挙手一投足に目を向ける。敵の狙撃が意味するものはアメリカとテロ組織におびえる民間人を守ることであり、また自分の家族を守る行為なのであるが、同時に「敵」(それは時に一般人だ)の殺戮であり、その国のある「家族」が死に直面しているという事実がある。自爆テロを行おうとした母親と少年を射殺せねばならず、半ば強引に協力を求めた家族の父親と息子は殺される。劇中のクリスはその事実に気づいていたが意図的に考えることを排除していた。戦場という男だけの世界でその事実を認識したら狂ってしまうだろう。ヘミングウェイ的な世界。敵は敵であり躊躇なく殺す。そうでなければこちらがやられてしまう。結果としてその行為が彼を夫であり父であることから遠ざけていた。毎日行われる戦闘は人を蝕む。久しぶりに帰って来た我が家という安息の地は彼にふとした瞬間戦地を喚起する。愛犬(牧羊犬の犬種であることも重要な点だ)が息子に飛びかかる。ビール瓶で殴り掛かるクリス。牙をむく狼には制裁が必要なのだ。彼の居場所は戦場だった。

実際のクリス・カイルは狙撃手として160人を狙撃したという。彼はアメリカでは伝説と呼ばれ、同時にイラク側からは「ラマーディーの悪魔」と呼ばれていたこと。国という守る対象が違えばもちろん見え方も違う。クリスは伝説であり悪魔だった。そして「伝説」は時として「象徴」にもなる。クリスという伝説はイラクへ派遣された兵士にしてみれば戦場を意味し、またあの場所を思い起こさせる。彼に救われた者も多数いたが、守ろうとした者は壊れており、あの結末を迎える。帰国し除隊したクリスにとって本当に守るべきは何だったのか。彼と同じく未だ悪夢にうなされる仲間か、父を必要とする家族か。牧羊犬は死んでしまった。悲劇だ。

戦争映画の歴史というものを考えたい。と言っても僕自身そんなに戦争映画を観ているわけではないのだが。
第二次世界大戦時、特にドイツがプロパガンダ映画を量産する。「オリンピア」や「意思の勝利」、日本の「桃太郎海の神兵」(アニメ映画)がその例だ。また戦地の映像を撮り本国で啓蒙的に上映されることもあった。兵隊さんは戦地で頑張っています。それは現在の戦場からのリポートにも似ている。終戦後は反戦映画の様なジャンルが生まれる。「橋」や「夜と霧」、「ドイツ零年」が挙げられる。イタリアのネオレアリスモが台頭してきたのも興味深く、パゾリーニ「ソドムの市」はそういった描写がないにも関わらず、反戦(というよりもファシスト)映画であった。未鑑賞の「1941」や「MASH」等のギャグを用いた娯楽的な戦争映画というものも出てきたがその辺りは詳しくないので割愛する。
1960年ベトナム戦争が勃発。プロパガンダとしての役目を担う作品も作られたが、多くはその当時から反戦的な内容のものだったという。また娯楽映画食の強いチャック・ノリス「地獄のヒーロー」も作られた。「フルメタル・ジャケット」は喜劇である。終戦後はベトナム帰還兵への差別が問題となっていた。その後発覚していく元隊員達への薬物実験等の事実。それが「ランボー」であり、「ジェイコブズ・ラダー」だ。「悪魔のいけにえ」もベトナム戦争映画と呼んで良いと個人的には思っている(気の触れたヒッチハイカーのスリムは帰還兵だった)。PTSDに苦しむ帰還兵は現在もまだ多くいる。特に「ジェイコブズ・ラダー」はそういった悪夢と現実が交差する素晴らしいホラーだ。
そんな作品も作られているのだが、愛国者は戦場へ向かう。イラクで戦闘が始まると彼等は戦場へ送り込まれ、ベトナムの時の様な状態になる者も多くいる。問題視されつつも変っていない。数年前「ハート・ロッカー」が話題となった後、次々とイラク戦争を題材にしたり思わせる作品が出てきた。どんどんと情報が流れ世界規模でリアルタイムに報道される現在、未だ続く戦争はテレビ越しに娯楽になったと思われる。

僕の虚無感はどこから来たのだろうか。行き場のない怒りややるせなさが本作を支配していた。それは50年前に始まったベトナムから変っておらず、しかもまだ続いている戦争だということ。映画はプロパガンダから娯楽となり、戦争自体も娯楽になってしまっているような錯覚に陥る。いつの間にか「早く引き金を引け」と思う自分が居た。また「プライベート・ライアン」を抜いた興行収入からもそれを感じる。それにそれが事実であるからこその妙にあっさりとした最後。良い作品と手放しに言えるものではない。でも自分の守るべきものと守られるべきものたちのことを考えた。

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