今更ジャッジ・ドレッド(リメイク版)について語るよ

世紀末感凄い

Dredd/2012/ピート・トラビス/イギリス/95min


スタさん主演の「ジャッジ・ドレッド(95)」、子供の頃地上波で定期的に流れていたと記憶しているのですが、周囲に覚えている人が誰もいません。何故。ちなみに初放送は1997年10月18日のゴールデン洋画劇場らしいです。当時9歳。10年後、大学に入って3つ上の先輩と話すまで僕の中ではUMAの様な作品でした。チュパカブラとかツチノコ的な。

そんな本作が何故か今更感満載でリメイクされたのが2012年(日本公開は2013年)。日本スルーかと思ってたら上映してくれて本当にありがとう。配給してくれたのどこかわかんないけど。公開時3D字幕しかやってなかったから余計に金払って観てやったともさ。すげー良かったよ。3Dで観るべき作品だよ。そして2年経って久しぶりに観たら2Dだったけどやっぱり良かったよ。でも鑑賞メーターでは割と不評だったよ。そんなわけで今更長文で感想を書くよ。自分の割にはネタバレしてない方。



ジャッジ・ドレッドとは

ジャッジ・ドレッドとは1977年に誕生したイギリスのグラフィック・ノベルである。しかしながら出版社はスーパーマンやバットマンでおなじみの米ディテクティブ・コミックスであり、その舞台は近未来アメリカにある都市「メガ・シティ#1」で、また元ネタにはドレッドを演じたシルヴェスター・スタローンが準主演した迷作「デスレース2000年」が挙げられている。少々変わった作品である故か、日本での知名度は圧倒的に低い。
近未来、荒廃した世界で「ジャッジ」と呼ばれる人々が警官、判事、処刑人として悪を制圧する権限を持つ「ジャッジシステム」が秩序を保つ。その中でも群を抜いた名ジャッジがドレッドである。彼が過去の優秀ジャッジのクローンであることや双子の弟:ジャッジ・リコがいることなどまでを表現しようとした結果、1995年版はハリウッド映画なのに、どこか日曜朝の特撮の匂いがする大変珍妙な作品になってしまった。しかも知名度抜群のスタローンを起用したことにより、絶対にヘルメットを脱がないという設定のジャッジが顔を見せまくっているという事態まで発生した。ドレッドが逮捕され彼を護送中の飛行機が砂漠に不時着することとなり、そこへ食人鬼来襲という流れも今思えば狂っている。

この怪しい作品がリメイクされるという情報が大学在学中に耳に入った。先の先輩と「誰が観るんだ」と話していたが、まさか自分がそんな一人になってしまった。

リメイク版

基本的には原作及び1995年版と同じ設定であったが、本作の良かったところはその長い歴史のために複雑化したストーリーを極限までそぎ落とした点だろう。適性検査には不合格だったがサイキックの能力を買われたジャッジ候補:アンダーソンの卒業試験としてジャッジと彼女は200階建ての超高層建築「ピーチツリー」へ赴き、そこをアジトにするギャングの女ボス『ママ』を倒すという至ってシンプルな物語だ。シンプルであるからこそに力強いとでも言えば良いのだろうか、「善悪」「法」「罪と罰」「(聖書的な意味の)天地」「暴力」というテーマが定まっており、軸がぶれることなく主張したかった部分を見せることができていた。その主張については後述する。

本作は3D作品として作られていたが、その見せ方も秀逸だった。奥行きと高さをを非常に美しくまた効果的に演出していたのだ。まず高層ビル群を鳥瞰して見せる冒頭。天にそびえるバベルの塔の如き建物が目の前に飛び出している。地上ではジャッジ・ドレッドが麻薬密売人をバイクで追跡している。吸引機から出る麻薬の煙がこちらまで臭ってきそうだ。犯人が脇見運転で事故を起こした瞬間飛び散る大量のガラスと血。破片と雫がスローモーションで舞う様子は暴力的で、処刑というおぞましいシーンであるにも関わらずとても美しい。それをスローモーションにしていたこともまた良かった。滞空時間が長く、そのためそのキラキラと光る姿を画面に止める。暴力とゴア描写が中々に効いているのだが、生命が壊れる瞬間が特に美しく表現されていて、人間に備わる動物的な本質の『暴力』に妙な魅力を与えている。

描かれたもの

司法とは社会システムの頂点にある。ママもピーチツリーの最上階に住み、ギャングの下っ端とその家族は下のレベルに住む。冒頭は真上からビル群を撮っており、その後すぐに地上へと視線が切り替わる。この視点の変化が示唆に富んでいるように思われる。天と地との対比表現が表すのは貴なるものとその支配下にあるもの。神と人間とでもいうべきか、バベルの塔の如き建物はママとその部下の罪深さを象徴するかのようで、また売春婦だったというママという存在はどこかマグダラを連想させる。旧約聖書の呪われた都市とでも形容できる場所がメガ・シティ#1であり、その部分が本作に寓話的な性格を付与する。

メガ・シティ#1は犯罪率が非常に高く、そのために開発されたのがジャッジシステムだ。現場に急行したジャッジが判決を下し罪状を決め、悪質に抵抗すればその場で処刑もできる。ピーチツリーに閉じ込められたドレッドが館内放送で「ママは法ではない」と言うが、ママが支配する高層密室に於いて、彼女は正に法である。この時ジャッジの執行する法の下に正当化された暴力とママのリンチが同じ性格を持つことに気がつく。実はジャッジが着ている制服もママの手下たちが入れられるタトゥーも、どちらも表すのは「集団への帰属」であり、その集団がいわゆる正義であるか悪であるかにより意味が全く変わってくるのである。だが本質は『暴力』なのだ。どちらにせよ、この世界は暴力で支配されている。痛みに対する恐怖はプリミティブな感情であり、だから全ての生命体に共通する。暴力とその絶対的な恐怖と人が人を裁くという愚行。それはある種の絶望であると同時に、人間は所詮動物であるということを確認する。
それでいて、ジャッジはヘルメットを被っており、高い匿名性が保たれる。その匿名性は個人を無くす訳ではないのだが、汚職に手を染めたとてその表情は伺い知ることは出来ない。またそれは没個性ともいえる。没個性の集団に属する個人の内なる葛藤は描かれない。その代わりに以下に書くヘルメットを被らない美女の存在がある。

これはジャッジ候補:アンダーソンの成長物語でもある。両親を亡くした彼女がピーチツリーという地獄に乗り込み、法の使者:ジャッジとなるまでを描いている。
彼女の強みはサイキックであるという点だ。ドレッドを含め誰も表層的にしか人間を見ることが出来ない。だからこそアンダーソンの存在は際立つ。彼女は意識を読み取り、またその中に入ることもできるのだ。終盤で彼女は自分が不適合ジャッジであるとしてママの部下を逃すが、それは彼らの思考を読んでいるからだ。ドレッドは的確にその罪状を把握するが、それは人間に対する裁きではなく単純に罪に対する裁きなのだ。犯罪者のバックグラウンドや彼らの後ろに隠されたものは無視し、その犯した罪だけが裁きを決める。アンダーソンの取った行動は人道的なものであり、罪状に対する考慮なのだ。それが今現在我々が生きる社会で執行される法とその裁きだ。
スローモーションで見せつけられる暴力に所詮人間であるということに気づかされたが、人間であるということがどういうことなのかがアンダーソンという存在により同時に描かれている。これもまた本作の魅力を引き立てていた。

アンダーソンの存在があるからこそジャッジシステムの不条理と問題点が浮き彫りになった。ではドレッドは人でなしなのか。彼は優秀なジャッジであり、法の番人なのだ。アンダーソンがいるからこそジャッジとしての仕事を遂行する姿に苦悩するという演出を挟むことなく物語を進められる点が大きい。しかしながらドレッドはアンダーソンを認めていることからもわかるが、疑問を持たないわけではない。見習いジャッジに教えられ、そして勧善懲悪の最後の砦となるのが彼なのだ。そのカタルシスは好きな点だ。

終わりに

この法の下の平等など存在しないかのようなディストピア映画の暴力描写は中々に強烈だ。自分の人間とのしての存在に懐疑的にすらなる。しかしそこには必然性があり、またその表現は甘美ですらあった。我々の目の前に突きつけられる寓話的な現実。それもまた暴力的でありただただ圧倒される。我々を支配するのは原初的な感情なのかもしれない。だが理性を持ち合わせることで支配に抗うことも出来る。我々の理性こそが与えられた最後の砦なのかもしれない。

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