チャッピー可愛いよ、チャッピー

向かって左:ヨーランディ、右:ニンジャ
「Die Antwoord」という南アのアーティスト
本名(?)でギャング役を熱演するこの二人が凄く良い

Chappie/2015/ニール・ブロムカンプ/アメリカ/120min


やっと書き終わったよ。

日本独自編集(しかも制作側に無断らしい)に憤慨していたれけど観に行ってしまいました。大好物なテーマで凄く良かったので本当に許せない。昔はバシバシ地上波でも残酷シーン放送してたじゃん。

ネタバレにならない範囲で書くと、ロボコップ元から完全ロボット版。MOOSE(ムース)がどう見てもED-209です、本当に(以下略)といった感じなのですが、チャッピーが完全にロボットであるからこそ「生命倫理」という部分が際立つ作品であり、またキリスト教的倫理感が前面に押し出されていたかと思います。寓話的なの。この部分が僕の琴線に触れまくったので、めっちゃネタバレしながら書いていきたいと思います。




人間が知能を作ることは何を意味するのか。それは高慢にも「人間」が「神」に近づく行ということだ。

これがキリスト教的な倫理観だろう。それに正面から向き合い、また人間同士の醜さまでも露わに描き出したのが本作だ。旧約聖書の世界を寓話的に示しているとでも言えばいいのか、わかりやすいし仏教徒として興味深い。監督の出世作「第九地区」でもスラムに住む者と知識人階級との差別をエビ型エイリアンと人間としてブラックコメディ的に描いたが、今回は無垢なロボットとそれを開発した科学者、ギャング、そして嫉妬に狂い利益を優先する人間という構造で描く。

上映が始まった時既視感に襲われた。「ロボコップ」にそっくりなのだ。治安の悪いヨハネスブルグの街にロボット警官を配備することから物語は始まる。87年公開の名作がロボットの制御ができないので人間を半分メカにするという発想だったのに対し、2015年のこちらは完全なロボットが警官だ。不運なスカウト(チャッピーと同型のロボットの名称)22号はバッテリーにもろに被弾し廃棄処分される運命にあった。それと時を同じくしてスカウトの開発者ディオンは実験945日目にして人工知能の開発に成功する。その実験台に選ばれたのが22号だ。これはアレックス・マーフィーがロボコップとして蘇ったことに似ている。マーフィーは肉体的な復活は果たすが精神的には死んだ状態だった。徐々に記憶を取り戻す彼の姿と、徐々に知能指数を上げ「創造者」すらも超えたかのようなチャッピーの姿はどこか重なって見えた。また「第九地区」でも徐々にエビ化する主人公には「ザ・フライ」を彷彿した。欧米文化に対するこのようなオマージュや憧れにも似た態度は監督の持ち味といっても良い点だろう。それを茶化しながら自国にローカライズしているというべきか、同じく植民地として同じキリスト教文化及び西洋文化を持ち合わせる世界一治安の悪い都市を持つ南アフリカだからこそ出来るパロディであると思う。

22号はチャッピーとして蘇るが、ギャングの元で教育を受けることになってしまう。強面ギャング達がチャッピーに対して愛情を芽生えさせる様子にはちょっとした感動を禁じ得ない。ギャングのヨーランディを母、ニンジャを父として、彼はどんどん知能をつけ自我を芽生えさせていく。その過程もまたロボコップに似ている。ロボコップが警察官として公共の福祉に尽力していたのに対し、マーフィーとしての自我を取り戻した時、彼の個人的な復讐が始まるのだ。22号も同様にスカウトとして犯罪の現場に出向き鎮圧することを目的としていたのが、チャッピーとなった後は父と母の『教育』を受け、彼らに害を与えるものに敵対心を抱く。それは家族という共同体における人間の通常の反応だろう。自我を持ち始めた彼に『私』が生まれることで、彼は『警察官』ではなくなり『チャッピー』という個人となるのだ。ロボコップのこのパブリックとプライベート、またはレザレクションに関しては一時間ほど語れるので別の機会に書いてみたいと思う。

「チャッピー」を観ていて一番考えさせらるのは生命倫理だろう。チャッピーはロボットだが寿命がある。胸のバッテリーボックスに被弾した彼は重電はおろか電池交換もできない。彼には5日しか与えられていない。自分が母や父、メーカーと違い機械だということに彼は気がついていたが、それが彼の命が永遠であることとイコールではない。それが彼を意識の解読や蘇生への興味へと駆り立てる。だが死を超越するとは良いことなのか。解読した意識とそれを移植された身体は本人なのか。複製可能となった瞬間オリジナルは消失し、全てが同じ性質を持つ大量生産品が生まれる。それが我々死を待つものが欲する未来なのだろうか。



感想を書くのに時間がかかったのは、これらの部分について自分の考えがまとまらなかった部分が大きい。自分の死よりも(すでに故人だが)祖母の死を恐れていた子供時代、大切なものが自分を置いて逝ってしまうという絶望感の再来を、そうは思っていなくとも感じたからなのだろう。

寓話的な部分が受け付けられないという人も多いようだが、僕はこの寓話性が好きだった。劇中でチャッピーが読んでもらう羊の話もその寓話性を示唆する重要な小道具だ・死を想え(メメント・モリ)という作品、それが僕にとっての「チャッピー」だ。

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